竹島(韓国名:独島)は日韓両国の懸案の一つとなっている。このかつては無人島であった島は領海意識が定着したために問題視されるようになったものと言って良い。例えば、日本の北方領土のように、そこが誰かにとっての墳墓の地であるという事情は無い。ただ、そこに両国が歴史的経緯や、漁獲に関する経済的な観点から権利を主張しているのが実態なのである。

 竹島に関する日本側の主張としては、1618年に江戸幕府が当時無人島であった(李氏朝鮮が立ち入りを禁止していたため)鬱陵島への渡航許可を米子の海運業者である大谷甚吉らに出しており、その中間点にある竹島(当時、松島と呼ばれていた)は既に認知されていたとしている。その後、李氏朝鮮と江戸幕府の間で鬱陵島の領有をめぐり論争が行われたが、鬱陵島は距離的にも朝鮮領であると考え、江戸幕府は1696年に同島への渡航許可を取り消した。

 その後、明治時代になり、竹島は①アシカ捕獲の拠点、②日露戦争における日本海海戦等の戦略的価値の向上という要因により1905年に島根県に編入されることとなった。しかし、アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)後の1946年1月のGHQ指令第677号により日本政府は千島列島や竹島等の地域の政治的行政的権限を喪失することとなった。しかし、それは最終的なものではなく、その範囲外に置かれた小笠原諸島や沖縄が日本に返還されたことから、日本政府はその指令では一定期間行政権を停止されたに過ぎないとしている。その証明として挙げられるのが、1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約である。同条約第2条(a)において「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」との記載があり、竹島は除外されている。

 そして、1952年1月、大韓民国初代大統領の李承晩は海洋主権宣言(いわゆる「李承晩ライン」宣言)により竹島を含む周辺海域の領有を宣言した。これはサンフランシスコ平和条約における「朝鮮に対するすべての権利」に竹島が入るとする考えに基づく。これ以降、日本と韓国の間で双方の主張が戦わされることとなる。

 また、日本政府は1954年9月に竹島の領有権をめぐって国際司法裁判所に付託することを韓国政府に提案したものの、韓国はそれを拒否し、その後もその姿勢は変わっていない。そのような経緯や1954年6月以降、韓国が軍隊を駐留させたために、その姿勢を威圧的なものであり、司法の場の判断を軽視しているというのが日本政府や多くの日本人の韓国観の一つを形成している。

 一方、韓国政府は1145年に編纂された史書『三国史記』において鬱陵島の支配権が確立されていたこと、及び15世紀以降多くの文献(『新増東国輿地勝覧』『成宗実録』『粛宗実録』『東国文献』等)に独島が表記されており、それらの中には渡航方法も具体的に表記されているものもあること(例えば、18世紀に編纂された『都城八道地図』には鬱陵島と独島へ風を得れば2日で到着との表記)等から、島に対する李氏朝鮮による認知があったことを重視している。また、韓国側の資料を考える際に重要なのは、韓国併合後、朝鮮総督府は寺内正毅による武断政治期に古文献20万冊の略奪および焼却を行っており、文献資料の欠落が発生し、不確実性が高まってしまっていることにも注意が必要である。

 また、近代に入り日本は日清戦争を経て、韓国への影響力の一層の強化を図り、1895年には国王高宗の王妃閔妃を三浦梧楼韓国公使の指示の下、王宮に突入し惨殺・焼却するという事件も起きた(韓国には火葬の習慣はない)。また、日露戦争直後の1904年2月に日本軍はソウルを占領しており、韓国は諸般の権利を行使できる状況になかった。そうした時代の中で、上記のように日本は1905年に独島の領有を宣言したのである。こうした展開に対して、日本は分離して考え、韓国は日本が帝国主義的色彩を帯びた一連の行動と捉えている。そこに大きな認識の相違がある。そして、韓国併合から33年たった1943年、カイロ宣言が発表される。その中では連合国の対日方針などが決定されたが、「Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. (和訳:日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ)」との文言があり、韓国としては日本が独島の領有を主張した以前より日本の侵略は始まっているとの認識から、独島は返還されるべきものであるとしている。また、日本のいう「李承晩ライン」に対しては、韓国側はあくまで、1946年に出された「マッカーサー・ライン」を継承したものと捉えている。そして、それらの要因により、独島は明らかに韓国の領土である以上、国際司法裁判所に協議を持ち込む理由は無いというのが韓国の立場である。

 しかし、両国の主張、中でも歴史的なものに関しては回答を導き出すことは難しい。なぜなら、領土問題の常として教科書(日本と韓国は共に国の検定・指定が入る教科書を使用している)でも繰り返し自国の領有が語られており、マスメディアでも政府の判断と異なることを発言する場合はほとんどない。資料の解釈においても解きほぐせない程に主張が混在している。双方が自らの領有を主張するためにかつては恐らく渡航の目印や中継地であった無人島の所在を明らかにしようとするために、多くの矛盾を抱えてしまっているのではないだろうか。そして、そこに双方が歴史的な負の遺産を全て注ぎ込み、未来に向けての歩みを止めている。

 では、未来のために、その島をどう扱えば良いのであろうか。私は現状のまま推移することも、「臭いものに蓋」のように思考を停止することも望ましく無いと考える。日本でも韓国でも、インターネットをはじめ多くの手段で双方に対し一つの島を通じて罵り合いが続いているが、そこに「なぜ、相手国はそうした罵りを行うのか」という視点を考える契機としたい。日本においては自国と韓国の歴史の意味を、韓国においては国際法システムの重要性を。無人島であった島からマイナスを生むのではなく、相互理解の拠点とすることで日韓両国の関係にも好影響を与えるのではないだろうか。未来志向であるということは、過去を含めた双方の実際の姿を知ることから始めなければ、友好的な将来はあり得ないのである。